不快感や恐怖をもたらす出来事は私たちにとってストレスとなるが、同時にこのような嫌な体験に関する記憶によって、事前に危険を予想し、身を守ることができる。しかし、恐怖記憶は私たちにとって常にプラスに働くわけではない。強い恐怖体験に関連した過度の恐怖記憶はそれ自体がストレスとなるばかりでなく、不安障害などの精神疾患の発症の一因となる場合があるという。さらにそのような疾患に罹患すると、ストレスに過敏になったり、新たに過剰な恐怖記憶を形成してしまうこともある。
恐怖記憶が私たちにとって有益に働くためには、実際の体験に見合った適切な強さの恐怖記憶を形成する必要がある。このためには、恐怖を感じるための脳の働きに加えて、過剰な恐怖を抑制するための脳の働きも必要であると仮定されてきた。しかし、そのメカニズムはほとんど明らかになっていなかった。
そこで理化学研究所(理研)脳科学総合研究センター記憶神経回路研究チームの小澤貴明客員研究員、ジョシュア・ジョハンセン チームリーダーらの国際共同研究チームは、実験動物モデルのラットを用いてそのメカニズムの解明を試みた。
ラットに何の反応も誘発しない音を提示した後に、恐怖体験として弱い電気ショックを与える訓練を行うと、ラットは音によって電気ショックの到来を予測することを学習し、音に対してすくみ反応という恐怖反応を示すようになるという。この「恐怖条件づけ」では、恐怖反応の強さは訓練を繰り返すたびに増加するが、十分に行うとそれ以上訓練しても増加しないことが知られている。これは「恐怖学習の漸近(ぜんきん)現象」として、魚類、ラット、ヒトといった多くの生物種で認められる普遍的な現象である。
今回、国際共同研究チームはこの現象をもとに、恐怖体験の事前予測による過剰な恐怖学習の抑制について調べた。その結果、ラットが一度恐怖を体験し、恐怖の到来を事前に予測できるようになると、「扁桃体中心核→中脳水道周囲灰白質→吻側(ふんそく)延髄腹内側部」回路という一連の脳領域が活性化し、さらなる恐怖記憶の形成を防ぐ働きをすることを発見した。また、光遺伝学を使ってこの回路の働きを不活性化すると、あらかじめ予測された恐怖刺激によって起こる、恐怖記憶形成の中枢である扁桃体外側核[7]の活性化が増加することがわかった。さらに、この回路を抑制すると、ラットの恐怖記憶が通常の漸近値を超えたレベルまで増加することもわかった。
この成果の過剰な恐怖に対する“脳内ブレーキメカニズム”は、私たちの日常におけるストレスコントロール、さらには不安障害などの精神疾患のメカニズムの理解につながると期待できるとしている。(編集担当:慶尾六郎)