名車概論:スカイライン伝説序章でデビューしたプリンス「S54B-2型」GT-B

2015年01月12日 20:22

Skyline

日産自動車の手によって保存されているスカイライン2000GT(S54B-2型)

 スカイラインの父とさえ言われる桜井眞一郎氏が初めて設計統括を務めて完成したプリンス・スカイラインS5型。デビューは1963年11月、東京オリンピックの前年だ。2リッタークラスの上級車種としてグロリアが誕生し、スカイラインは、1.5リッターのファミリーセダンとして投入された。搭載エンジンはG1型直列4気筒OHVエンジンだった。

 そのスカイラインに1964年に第2回日本グランプリGT-2部門タイトルを目指した車種が限定100台で追加される。フロントウインドウ直下のバルクヘッドから前のボンネット下ボディを200mm延長した特別なモノコックボディを持ったホモロゲーション獲得のためのS54A-1型「スカイラインGT」だ。スカイライン伝説の始まりである。

 このクルマが生まれた背景には、1963年の第1回日本グランプリでのプリンス惨敗がある。鈴鹿サーキットで開催された第1回グランプリにおいて、プリンスはグロリアとスカイラインを送り込むも、トヨタ、いすゞ、日産に太刀打ちできず、グロリアでようやく9位という惨めな結果に終わった。この惨敗にスタッフは奮起、レースに勝てるクルマを開発して翌年のグランプリに挑むことになった。

 搭載エンジンは、プリンス・グロリアスーパー6用の強力なG7型2リッター直列6気筒OHCエンジン。ウェーバー製サイドドラフト・ツインチョーク・キャブレター3連装をはじめとするエンジン関係オプションやサスペンションなどシャーシー強化のための各キットも同時に用意され、レース車両にこれらパーツが組み込まれた。

 第2回日本グランプリは、1964年5月に鈴鹿サーキットで開催。この大会は前年のアマチュア主体のレースから大きく変貌し、国産メーカーがワークス体制で真剣にレースに臨んだイベントとなった。クルマの輸入自由化が迫り、自動車業界の再編がささやかれるなか、日本GPの勝利はユーザーに技術力をアピールする有効な宣伝材料となったのだ。前年に3クラスに出場してそのすべてで優勝したトヨタは新聞広告などで大々的にグランプリ優勝キャンペーンを行ない、販売成績を伸ばした。他社もこれに刺激された格好で日本GPに向けて体制を整えた。

 この日本GPのGT-2部門(2リッター未満)クラスで、生沢徹がドライブするスカイラインGTが、ワンラップだけだが、式場壮吉のポルシェ904を抜き去った場面が伝説の発端だ。

 翌、1965年2月に生沢徹がドライブしたレースモデルと同様にウェーバー製キャブレターを3連装し、125ps/5600rpmの出力を持ったスカイライン2000GT(S54B-2型)として発売したのが、写真のモデルの前身となるクルマだ。同年、9月には、生産行程の問題で必要数量を確保するのが難しいウェーバーキャブレターを、2バレル気化器1基とし、デチューンした105ps仕様の「2000GT-A」(S54A-II型)が追加。2月に発売されていた2000GTは、「2000GT-B」となった。このとき、GT-Aは青のGTエンブレム(通称/青バッヂ)、GT-Bは赤のGTエンブレム(同/赤バッヂ)を装着した。

 その伝説のスカイラインを生産していたプリンス自動車は、業界再編の大きな波に飲み込まれ、1966年8月に日産自動車に買収・併合される。(編集担当:吉田恒)