名車概論:42年間生産され世界で愛された「醜いアヒルの子」/シトロエン2CV

2014年12月06日 13:30

Citroën_2CV

2014年秋、東京にて。生産終了後24年を経た東京で元気に走るシトロエン2CV。最終型は602cc・水平対向2気筒OHVエンジンを搭載、4速MTを組み合わせた

 シトロエンというフランスの自動車メーカーは不思議な会社だと思う。そのことを端的に表すクルマが「シトロエン2CV」ではなかろうか。「2CV」とは“2馬力”という意味で、フランス国内の自動車税課税基準の「課税出力」カテゴリーで「2CV」に該当することに由来する。ただし、「シトロエン2CV」が、たった2ps(馬力)の出力だったわけではない。後年にはブラッシュアップによって、税制上は「3CV」相当まで達した。が、名称は2CVのままだった。

 1919年に自動車生産を開始したシトロエンは、自動車メーカーとしては後発組だった。しかし、米フォード社のT型フォード大量生産システムを模倣して、小型で高品質なクルマをリーズナブルな価格で供給し、わずか数年でフランス最大の自動車メーカーとなった。1921年に発売したコンパクトな3人乗りの「5CV」が大ヒットしたからだ。

 ところが、このヒット作は1926年に生産を終える。社主のアンドレ・シトロエンが経営方針を刷新し、大型で高級モデルの生産にシフトさせたからだ。同社は欧州メーカーとして早くから先端技術の導入に熱心だった。1934年には、同社として最初の前輪駆動モデル「7CV(シトロエン・トラクシオン・アバン)」を発表した。が、このモデル生産における膨大な設備投資などが、同社の経営を圧迫し破綻を招く。

 これに伴い、アンドレ・シトロエンは経営から退き、フランス最大のタイヤメーカーであるミシュランが経営に参画することとなる。ミシュランからシトロエン入りした役員は、社長のピエール・ミシュランと副社長ピエール・ブーランジュ。ふたりはシトロエンの立て直しに奔走するも社長のピエール・ミシュランは1937年に事故で死亡。後任にピエール・ブーランジュが就き1950年まで社長職に就いて陣頭指揮を執った。

 前置きが長くなった。シトロエン2CVの企画は、1935年ピエール・ブーランジュの構想から生まれた。フランスは今もその頃も農業国家だ。ブーランジュは、当時のフランス農村の実態を「19世紀以前の状態。手押し車や牛馬の引く荷車に頼った輸送は極めて非効率」として、開発陣に農民向け小型自動車の開発を命じる。開発コードは、「Toute Petite Voiture(超小型車)」を略した「TPV」の略称で呼ばれた。

 ブーランジェの提示した農民車「TPV」のテーマは、「こうもり傘に4つの車輪を付ける」という、簡潔さの極致を示唆するものであった。これは、フォルクスワーゲンが先代ビートルを発表した際のコンセプトを当時の会長ピエヒ市が「4つのタイヤに乗った楽観主義」と表現したことに通じると思うのは筆者だけだろうか。なお、農民車の価格はアッパーミドルクラスである同社トラクシオン・アバンの1/3以下、かつ自動車を初めて所有する人々でも容易に運転できる簡便さが求められた。

 その難題に挑むこととなる「TPV」、後の2CVの開発責任者に就いたのはルノーを経て1933年にシトロエン入りし、「シトロエン・トラクシオン・アバン」の開発を発案し、短期間のうちに完成させたアンドレ・ルフェーヴル技師だ。すでに「トラクシオン・アバン」で前輪駆動車の量産化を成功させていたルフェーブルは、TPVの駆動方式にも前輪駆動方式を採用した。プロペラシャフトを省略でき、軽量化出来てや振動抑制、低重心化の効果に期待したからだ。もちろんそれは操縦安定性にも寄与する。軽量化はキャンバストップの採用にも現れた。屋根から鋼鉄を取り去ることで低重心にもなった。また、軽量化はホイールにスタッドボルトを3本にするなど徹底している。

 悪路踏破力、乗り心地、経済性のいずれにおいても厳しい条件であるが、それでも技術陣の努力によって難題の多くが解決・達成された。加えてブーランジェは車内スペース確保も要求し、身長2m近い大男であるブーランジェ自身がシルクハットを被って試作車に乗り込んで「ハットテスト」を繰り返したという。結果的に、このテストが奏功し、このクラスの大衆車としては望外と言える、ゆとりあるスペースが確保された。

 第二次大戦で一時ドイツに占領されたフランスは、シトロエンも含めて新規事業を封印した。シトロエン2CVが発表されるには、戦後の1948年まで待たなければならない。その年の10月に開催された自動車ショー「パリ・サロン」で公式に発表されるのである。

■評価は「醜いアヒルの子」だった

 この時代、すでに競合する750ccエンジン搭載の大衆車ルノー「4CV」や、ワンランク上の1.3リッター「プジョー203」がすでにデビューし、他社製ニューモデルが極めて“まとも”な自動車だった。故に2CVの奇怪さが際だった。

 でも、しかし。その後の2CVは市場に評価される。ピエール・ブーランジェは、このクルマの成功を確信していた。2CVの不思議な外見とは裏腹に、あらゆる面で合理的な裏付けを持って設計、市場ニーズに合致したクルマであるという自信を持っていた。

 先行量産モデルは「日常における実際の使用条件について詳細なモニタリングが行われた。それらはフィードバックされ、技術改良と販売方針の改善に活用された。2CVが廉価なだけでなく、維持費も低廉で扱いやすくて信頼性に富み、高い実用性は、短期間でユーザーに理解された。ダッシュボードから生えた独特なシフトレバーにもすぐにユーザーは慣れたし、最後までオートリターン機構が付かなかったウインカーレバーに不平を言う者もいなかった。1950年には6196台と、月産400台のペースで量産されるようになり 1951年には生産台数は1万4592台になった。以後も生産ペースは順調に増加していった。

 この奇妙でエキセントリックな自動車の外見にフランス国民は早々に慣れ、2CVは数年で普及した。街角や田舎道に2CVが停まる姿は、フランスの日常的光景となった。更にはヨーロッパ各国にも広範に輸出された。ことにその経済性と悪路踏破能力は各地のユーザーに歓迎され、イギリスなどにおいて現地生産も行なわれた。

 1948年から1990年までの42年間、大きなモデルチェンジを行なわず生産され、総生産台数は387万2583台と伝えられている。しかしながら、発案者のピエール・ブーランジェは2CVの大成功とロングセラーを完全に見極めることなしに、1950年自ら運転するトラクシオン・アバンの事故で死亡する。(編集担当:吉田恒)