いま、さまざま報道のなかで日産自動車の苦境が伝えられている。かつて、国内自動車メーカーでトヨタと対等にトップを競っていた名門の面影はない。なお、内田誠日産現社長は3月末で退任し、次期社長にイヴァン・エスピノーサ氏に決まった。今期赤字転落が決定的となった日産を巡るドタバタはしばらく続きそうだ。
しかし、翻って日産の製品をみると60年代から90年代初頭あたりの日産車には、魅力的で個性豊かなクルマたちがいた。あの時のクルマづくりを継承していれば、もしかしたら今の日産ではなく、違った自動車メーカーになっていたかも知れない。「……たら」「……れば」は、無意味かもしれないが、敢えてふり返る。そんな“あの時のクルマ”たちに登場願う。
世界経済が動く要素はひと言で説明がつかない。1980年代、日本経済は世界情勢の影響を受け(なかでも米国の)翻弄される。80年代前半に日本や欧州などから自動車を含めた対米輸出が急伸し、米国は莫大な貿易赤字となる。これを是正するために、1985年9月のG5蔵相・中央銀行総裁会議で決議された、いわゆる「プラザ合意」によってドル安に誘導する国際的な協調体勢がとられた。その結果、日本は急激な円高に見舞われる。「プラザ合意」発表前日の対米ドル235円は、1年後には対米ドル約150円にまでになる。
これが自動車を中心とした日本の輸出企業に大打撃を与える。よく言う「円高不況」である。これに対応した日銀による強引な金融緩和により1987年秋に、日本の地価は倍以上に高騰し、円高不況時に1万2000円ほどだった日経平均株価は1987年に2万6000円を超えた。株価はブラックマンデーを乗り越えて1990年に最高株価3万8957.44円を記録する。これが世に言う「バブル景気」である。
こんな時代に発売されたエポックメイクなクルマが、1985年11月の東京モーターショーに日産ブースで参考出品されたクルマが日産「Be-1」だ。
■メカに特徴的なポイントが無い「Be-1」だが、“洒落た雑貨感覚”をアピール
そして、「Be-1」は1986年1月に限定で1万台生産することを正式に決定。ショーモデルを忠実に再現したそのクルマは、2カ月ほどで受注は埋まった。そして、1987年1月に納車が始まり街を走り始めた。まさに、プラザ合意後の円高不況下に登場して、バブル景気真只中に走り出した小さな乗用車だ。
ふり返ると、それまでの日本では、1978年に渋谷東急ハンズがオープン。1979年にSONYウォークマンが登場。1981年に渋谷にパルコ・パートⅢ、六本木にAXISがオープンしていた。西友から無印商品が登場したのもこの頃だ。いずれも若いファッション感覚と遊び心に溢れた雑貨感覚を大切にした商材・商業施設だったといえる。それが80年代、後の西武百貨店社長となる西武渋谷店長の水野誠一氏による渋谷西武SEED館、LOFT館が加わり、さらにお洒落な雑貨を求める消費傾向が顕在化した。それがクルマにも及んだといったら滑稽だろうか。
Be-1の魅力は内外装が醸し出す雰囲気にあり、クルマをファッションアイテムの一部として訴求できた。Be-1は、1982年に登場した日産の小型車K10型初代「マーチ」の基本骨格を使ったクルマで、メカニズムには、まったく訴求すべき点はない。まさに中身は初代日産マーチそのものだ。
そもそもBe-1は、ファッション業界からコンセプターに坂井直樹氏を招き、出来上がったのはレトロともいえる丸くて小さなデザインが最大の特徴のクルマだ。名称は、スタディモデル案、A案・B-1案・B-2案・B-3案の4つのモデルの「B案のNo.1」から採った。
このBe-1は、それまでの国産自動車が追及してきた絶対的な動力性能やパッケージングの実用性などの既成目標よりも別のベクトル、既成価値へのアンチテーゼともいえる方向性を指し示すことで独自の価値を見せたクルマだった。
蛇足かも知れないが、Be-1の主要諸元にも簡単に触れておく。ボディは2ドア2ボックスでハッチバック車ではなかった。ボディサイズはベースとなった初代マーチとほぼ同じ、全長×全幅×全高3635×1580×1395mm、ホイールベース2300mm。
搭載エンジンは987cc直列4気筒OHCで、最高出力52ps/6000rom、最大トルク7.6kg.m/3600rpm。トランスミッションは5速マニュアルと3速オートマティックを用意。
車両を支えるサスペンションは前マクファーソン・ストラット式、後4リンクコイル式固定軸だ。後にキャンパストップを採用したモデルも用意され、車重は670〜710kgとなっていた。ボディカラーはパンプキンイエローほか計4色。東京地区標準価格は129.3万円〜144.8万円だった。
■2匹目のドジョウ「PAO」と3匹目の「FIGARO」
日産はBe-1の成功を受けて「2匹目のドジョウ」を狙う。1987年の第27回東京モーターショーに出品したパイクカー第2弾「PAO」を89年1月に市販化する。Be-1と同様に限定車という受注方式を採用したが、台数を限定して混乱を招いたBe-1の経験から、予約期間だけを設ける方式を採用。つまり予約期間に受注した台数を生産するという方式だ。
「メカニズムに何の新しさも無く、アウタースキンだけを換えた、レトロ路線だけのクルマ」という酷評も多かった。が、空前のバブル景気に乗って、たった3カ月の受注で4万2000台を売る大ヒットとなった。1991年2月には、日産から「3匹目のドジョウ」を狙ったパイクカー第3弾「FIGARO」が登場する。
日産が世に送りだしたパイクカー3台は、性能云々ではなく、ある意味ファッション感度のアピールが奏功して売れた。1994年にはサニーをベースにSUVなどという単語が無かった時代にSUVのようなパイクカー「ラシーン」を発売、それなりに評価が高かった。
が、しかし、日産はパイクカーの少量生産で可能にした新しい試み・実験をその後の商品戦略に活かせなかった。その後の、90年代後半には経営難に陥って仏ルノーの支援を仰ぐ。そしてカルロス・ゴーン独裁体制がはじまる。(編集担当:吉田恒)