BtoB企業の広告・広報手法(2)・広報の呪縛からの脱却

2011年01月20日 11:00

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村田製作所広報部部長・大島幸男氏は「広告に製品と説明は必須」という一種の呪縛に気付き、画期的な企業広告を次々と発表してきた。

 株式会社村田製作所<6981>の広報部部長・大島幸男氏が広報部に配属された1980年代当時、技術力の評価は高くBtoB企業からの信頼も厚い優良企業である一方、社会的な知名度は低かった。学生にとっての一流企業とは取引内容云々よりも一般的な「知名度」でしかない。一般的な知名度が低いことだけで、才能ある学生の確保が困難となり、将来的な発展性に危機感を抱いた村田製作所は、広告・広報活動に力を入れはじめる。当時の広報担当に与えられた使命はただ一つ「村田製作所を有名にせよ」ということだった。

 当時の広告予算はわずか3000万円。その限られた枠の中で出来ることは、広報展開の強化だった。マスコミに対して積極的に情報を発信し、専門誌だけでなく一般紙にも積極的にアプローチした。また、海外工場見学会など、魅力のある取材機会の提供にも力を入れた。こういった広報活動により、ムラタの掲載記事件数は大幅に上がった。ところが……

 あろうことか、掲載記事件数の増加と反比例して、ムラタのイメージは低下してしまった。その理由は単純。内容が難し過ぎたのだ。記事の内容が専門的すぎることと、一般消費者には直接関係のない製品情報ばかりだったので、ターゲットに届かなかったのだ。

 「記事が多くの紙面に掲載されることと、一般社会に認識されることは別。相手は学者や専門家ではありません。製品の説明や利点などをくどくどと書くのは、こちら側の自己満足なだけで終わることもあるのです」と大島氏は言う。

 「広告に製品と説明は必須」という一種の呪縛に気付いた大島氏は、89年、これまでの企業広告とは一線を画した画期的な企業広告を発表する。

 それは、京都駅の新幹線の風防に取り付けた駅看板だった。同社にとって唯一の企業広告であった。砂漠の真ん中にカジュアルな格好をした若い女性が一人。背中にはパラボナアンテナとノートパソコンを背負い、手には携帯電話を持っている。難しい製品や部品の説明などは一切無く、ただ「コミュニケーション企業―ムラタ」とあり、その横に「人・旅・夢。」というキャッチコピーが大きく書かれてあるだけのシンプルなものだった。

 「たとえ砂漠にいても、携帯やパソコンがあれば誰かとつながっていられる……そんなイメージで、今後発展するであろうエレクトロニクス業界を連想させる。目的をそれだけに絞り込んだのです」と大島氏。確かに、20年前の広告とは思えないほどシンプルで且つ現在の我々の生活まで予測したような広告である。この広告を見れば、当時の若い世代ならとくに、未来を想像して胸を躍らせたことだろう。社内的な評価も高く、当時の若手社員も「これから村田は変わると予感した」と感想を残している。

 この広告をきっかけにムラタは「広告に製品と部品の説明は必須」という呪縛から脱却することに成功し、その後のムラタの広報を変えた記念碑的な広告となった。