【コラム】プリンス自動車出身の櫻井慎一郎・監修の日産製「ミッドシップ4WDスポーツ」の行方は?

2025年04月13日 08:33

Nissan MID4

1980年代、日産の久米豊社長が牽引していたミッドシップヅポーツ「MID4」のプロトタイプⅡ型 ボディ寸法は全長×全幅×全高4300×1860×1200mm、ホイールベース2540mm パワーユニットはVG30DETT型、このツインターボエンジンの最高出力は330ps/6800rpm、最大トルクが39.0kg.mで4輪を駆動する

 いま、さまざま報道のなかで、日産自動車はルノーとのアライアンスを見直す動きなど、やや迷走気味の施策が目立つ。かつて、国内自動車メーカーでトヨタと対峙し、本社を銀座に置いていた名門の復活はあるのか?

 2025年2月、日産自動車の世界生産は前年同期比12.1%のマイナスで、2024年4月からの累計でも279.7万台と30万台のゲイン、10.0%のマイナスだ。昨年4月以降、世界販売でも連続して前年実績を割り込んでいる。

 しかし、ふり返って日産の製品をみると80年代後半までの日産車には、魅力的で個性豊かなクルマたちがいた。あの時のクルマづくりを継承していれば、もしかしたら今の日産ではなく、違った自動車メーカーになっていたかも知れない。「……たら」「……れば」は、無意味かもしれないが、敢えてふり返る。そんな“あの時のクルマ”たちがあったなら……?!

■プリンスR380の血筋を受け継ぐミッドシップスポーツは?

 バブル経済前夜の1980年代はじめ、日本国内自動車市場でトヨタの後塵を拝していた日産自動車が、ミッドシップスポーツモデルの開発をスタートさせていた。1.6リッタークラスのライトウエイトスポーツと3リッタークラスの高性能スーパースポーツ2種の開発計画だった。

 日産に吸収合併させる以前のプリンス自動車は、「モータースポーツは自動車の性能アップを後押しする」という信念のもと、その世界で1960年代から「R380」というミッドシップ・レーサーを製作、レースに参加していた。日産によるプリンス吸収合併後、このレーシングカー開発は日産が引き継いだ。

■日産首脳曰く、「ゴルフバッグが載らないスポーツカーは?」

 こうした背景から、国産メーカーで最初に市販ミッドシップスポーツを製品化するのは日産だと思われていた。ところが、ミッドシップの市販車国産第1号は「トヨタMR2」だった。トヨタよりも先行していたはずの日産の計画だったが、MR2の発売で日産の本気度が増す。

 2種のミッドシップ開発計画の中心人物は、スカイラインの開発責任者である、あの櫻井眞一郎。櫻井はR31型スカイラインGTの開発を進めながら、ミッドスポーツを含めた新企画車の原案を練っていたようだ。そのなかの1台が、初代マツダRX-7をコンペティターに据えた小型スポーツである。しかし、この小型スポーツ、モックアップが完成して役員会に提案した際に、一部の役員から「ゴルフバッグが積めない!」旨のつまらない発言で開発中止となったという、あきれた逸話が残る。

■ミッドシップ4駆スポーツ誕生

 一方、3リッターミッドスポーツの開発は継続する。そして出来上がったのが、1985年9月、西独フランクフルトショーで世界初公開された「NISSAN MID4」(通称Ⅰ型)である。コンセプトは、世界で通用するグランドツアラーだ。日産自慢のV型6気筒、VG30E型エンジンをDOHC化した自然吸気エンジンVG30DE型を搭載。最高出力230ps/6000rpm、最大トルク28.5kg.m/4000rpmを発揮した。これを運転席背後に横置きミッドシップ搭載、トラクションに優れる4輪駆動方式を組み合わせた。

 ミッドシップスポーツ「MID4」は、翌1986年の東京モーターショーでも公開され、日産栃木工場のテストコースでは、自動車ジャーナリストや自動車専門誌向けの試乗会も行なわれた。だが、日産はMID4の開発に一旦幕を引く。しかし、第2の試作は既に始まっていた。

■「MID4 Ⅱ型」開発に向けた動き……

 第2のMID4、つまり後に「MID4 Ⅱ型」とされるモデルは、Ⅰ型のスケールを大きく超える計画だった。開発は櫻井が指名した中安三貴が担当。エンジンをミッドシップ搭載して4WD駆動するという基本レイアウトは踏襲するが、さらなる高性能モデルを目指して300ps超のパワーユニット搭載を画策する。そこで、搭載エンジンは日産の中央研究所が開発したフェアレディZ用のDOHCエンジンVG30DE型をツインターボ化したVG30DETT型とした。

 FR車であるフェアレディZ用のエンジンだから、その搭載方式は必然的に縦置きとなった。このツインターボエンジンの最高出力は330ps/6800rpm、最大トルクが39.0kg.m/3200rpmで、Ⅰ型搭載の自然吸気エンジンVG30DE型に比べて圧倒的にパワフルだ。

 4WDのメカニズムは基本的にⅠ型と同じ。センターデフにプラネタリウムギア+ビスカスカップリングを組み合わせた。ビスカスカップリングはフロント&リアデフにもセットされ、LSDとしての機能を果たす。

 サスペンションも進化した。Ⅰ型では4輪マクファーソン・ストラット式だった脚は、Ⅱ型で前がツインダンパーのダブルウイッシュボーン式、後が最大変位角2度の4輪操舵システム、日産自慢の「HICAS(ハイキャス)」を組み込んだマルチリンク式となる。タイヤもⅠ型の全輪205/60VR15から前225/55ZR16、後255/50ZR16の前後異径タイヤにアップデートされた。

 ボディ寸法はⅠ型の全長×全幅×全高4150×1770×1200mm、ホイールベース2435mmから、Ⅱ型で4300×1860×1200mm、ホイールベース2540mmと拡大した。

■バブル経済の只中、Ⅱ型MID4公開、仮に売れば2000万円超

 MID4 Ⅱ型は、日本中がバブル経済を謳歌する真只中の1987年、晴海で開催された最後の東京モーターショー「第27回」の日産ブースで、“4WDアテーサ”を搭載した先鋭的な新型ブルーバードSSSなどと共に左ハンドル仕様が展示された。同時に、クローズド・コースを使った自動車専門誌やモータージャーナリスト向けの試乗会も開催した。Ⅰ型に比べて圧倒的な完成度で「いつ発売されるのか?」とⅡ型も話題となる。

 スーパースポーツMID4計画は当時の日産社長である久米豊のキモ入りだった。が、Ⅱ型プロトタイプは、まだまだ未熟で、市販量産車として完成度を高めるには、ハンドリングや挙動、制動などのダイナミズム性能、感応評価特性、ターボエンジンの熱対策などで、さらに2年以上の試行・熟成が必要とされた。

 また、日産の社内的にMID4 Ⅱ型を市販化すると、車両価格2000万円超となるという試算もあった。せいぜい400万円の4座クーペ「レパード」が上限だった当時の日産にとって、「その5台分の高額車、日産が扱える商品なのか?」という声も上がったという。

 しかし、MID4は着実に開発が進んでいたとも伝わる。そんななか、バブル崩壊前の1989年にホンダが本格的なミッドシップスポーツ「NSX」を発表、翌1990年に800万円で発売した。その1990年にMID4計画を牽引してきた久米豊が日産を去る。そして、バブル崩壊。プロジェクトは霧散する。

 「……たら」「……れば」は、無意味かもしれないが、敢えて言う。もしも「日産MID4を完成させ、市販していたら」、そして「日産開発陣が描いていた夢が叶っていたら?」、そのポテンシャルはNSXを凌駕していたかも知れない。以後、日産のミッドシップスポーツの量産化計画は無い。(編集担当:吉田恒)