名車概論/大衆車パブリカから多くのパーツを流用──コストパフォーマンスを重視した「トヨタ・スポーツ800」

2015年12月05日 12:48

Toyota_S800

赤いボディカラーは「ヨタハチ」のイメージカラー。車重は580kgをきわめて軽く、当時のライバルだった2座オープンの「ホンダS800」に比べて180kgも軽かった。写真のクルマはトヨタ博物館所蔵の1台

 1963年に鈴鹿サーキットで開かれた日本の近代四輪モータースポーツの幕開けとなる「第1回日本グランプリ」が開催され、日本初のハイウェイである名神高速道路の開通を契機として、本格的な自家用乗用車のハイスピード時代が到来した。まだまだ日本のモータリゼーションは発展途上だったが、国産でもダットサン・フェアレディやホンダS500/600などのスポーツカーや、いすゞベレット1600GT、プリンス・スカイライン2000GTといったGTカーやスポーティカーが登場し始めていた。

 後に「ヨタハチ」の愛称で親しまれることになる「トヨタ・スポーツ800(S800)」も、そうした時期にデビューした。トヨタ初の市販スポーツカーとして、1965年に登場したのである。フルオープンではなく、リヤウインドウが残るスタイリングは、オープン時のボディ剛性を確保するためだった。6本のビスで、簡単に外すことができる軽量なFRP製の屋根を持っていた。このボディ形状は、後にポルシェが「911タルガ」として発表し、後年「タルガトップ」と呼ばれるようになったが、1台でオープンとクローズドが楽しめるこのトヨタS800が元祖だったのだ。このS800、トヨタにとって初の2座スポーツだったが、完成度が高いファニーなデザイン、ライトウエイトスポーツカーをユニークなコンセプトで体現したクルマだった。

 当時、日本だけでなく世界的にスポーツカーといえば、まず“大きく強力なエンジンを搭載”というのが相場だった。が、この「トヨタS800」は、スポーツカーの楽しさが絶対的な排気量の多寡や、そのメカニズムが持つポテンシャルだけではないことを教えてくれたクルマだった。搭載するパワーユニットは、トヨタの国民車構想から生まれた大衆車であるパブリカ用を少々チューンした2U-B型790cc空冷水平対向2気筒OHV。最高出力は45ps/5400rpm、最大トルクは6.8kg.m/3800rpm。トランスミッションは2速以上にシンクロメッシュを装備した4速マニュアルだった。

 それを全長×全幅×全高3610×1465×1175mm、ホイールベース2000mmという空力特性に優れた軽量コンパクト(580kg)なボディに積むことで、非力さをカバーすると同時に軽快なハンドリングを実現したのだ。このディメンションを軽自動車法規制枠である全長×全幅×全高3400×1480×2000mmと比べられたし。全長はわずかに長いが、ほぼ現在の軽自動車に匹敵するサイズだ。そして車重は6割ほど。いかに軽快なドライバビリティが得られたか、分かるというもの。

 また、エンジンだけではなく、フロント・ダブルウィッシュボーン、リヤ・リーフリジッドのサスペンションなど、基本コンポーネントやサスペンションもパブリカから流用しイニシャルコストを抑えた設計とした。しかしながら、0-400m加速を18.4秒で駆け抜け、最高速は155km/hと、当時としては破格の性能をカタログに記載していた。

 トヨタS800はモータースポーツでも活躍した。有名なのはデビューした65年7月に船橋サーキットで開かれた全日本自動車クラブ選手権レースにおける、GT-1クラスで浮谷東次郎がドライブしたクルマだ。スタート後にクラッシュ16位からの追い上げによる雨中の大逆転勝利だ。が、むしろ真価を発揮したのは、その後の耐久レースだった。軽量で空気抵抗が少ないために燃費が抜群に良く、給油回数が少なくて済む。そのため、しばしば大排気量車を喰ってみせた。1967年の富士24時間耐久レースで、総合優勝と2位になったのは、あの名車トヨタ2000GTだが、そこで3位入賞したのが小さなトヨタS800で、チームトヨタが表彰台を独占した。その効率的で知的ともいえる合理的なパッケージングは、現代のクルマ作りにも通じるものがあるといえる。

 発売当時、トヨタS800の価格は、ラジオもヒーターもつかない標準仕様で当時およそ60万円。パブリカが40万円前後だったから絶対的には安くなかったが、当時の150万円超の英国製ライトウエイトスポーツに比べれば圧倒的にリーズナブルだった。ちなみに、1967年にデビューしたトヨタ2000GTは238万円だった。(編集担当:吉田恒)