1967年にデビューしたトヨタ2000GT。いま見ても流麗なボディデザイン。車両寸法は全長×全幅×全高4175×1600×1160、ホイールベース2330mmと非常にコンパクトだ。現在のトヨタ・スポーツの代表である「86」よりも65mm短く、175mmも狭く、125mmも低い
国産乗用車、なかでも市販された「国産スポーツカー」の名車といえば、このクルマをおいてほかに無い。「トヨタ2000GT」である。その「トヨタ2000GT」が発売されたのは1967年。来年2017年にデビュー50周年を迎える。
このクルマの来歴については諸説さまざま、巷間では伝説のように伝えられる逸話が多い。なかには、あたかも真実のように伝えられている誤りも多い。そのどれもが、「トヨタ2000GTの伝説」として生き続けている。
──それでは、その「伝説」の一部に荷担することにしよう。
1960年代の半ば、1964年にプロジェクトがスタートした際に、このクルマの設計・製造にかかわったのは極めて少数だった。詳細な資料は残っていないが、トヨタの設計技術者と実験技術者の計6名だったという。
その年の春に編成されたチームは、夏には基本的なクルマの構想を決めていたという。当時、トヨペットクラウンが搭載していた2リッター直列6気筒M型エンジンをDOHC化して搭載すること。ロングノーズ&ショートデッキの2座スポーツというプロファイルなどだ。
その「2000GT」開発パートナーとして手を結んだのがヤマハだ。当時、ヤマハは日産と秘密裏にスポーツカー設計プランを進行させていて、当時その計画が頓挫したという経緯があった。そこため、「2000GTは、日産とヤマハが開発を進めていた“スポーツカー”がベース」だ、という“うわさ”が流布する理由がある。
しかしながら、この件については、ヤマハ、トヨタともに否定しており、「トヨタ2000GTの基本的な車両設計計画はトヨタ主導で行なわれ、具体的なエンジン開発&チューン、製造工程の整備にヤマハの技術が用いられた」というのが真実だ。
エンジンの開発はヤマハ発動機が行なった。これは確かな事実だ。基本的なレイアウト、つまりベースのエンジンなどの設定などはトヨタが決めたが、DOHC化に伴う吸排気バルブ制御などの詳細設計はヤマハの技術が活かされた。まさに、トヨタとヤマハの合作が生んだエンジンが、3M型2リッター直列6気筒DOHCエンジンなのだ。ソレックスキャブレターを3連装したそのエンジンの出力&トルクは、最高出力150ps/6600rpm、最大トルク18.0kg.m/5000rpmだった。組み合わせたトランスミッションは、当時の量産国産車で極めて稀なフロアシフトの5速マニュアルである。
このエンジン以降、トヨタ・エンジンを改良してDOHC化されたトヨタ製スポーツエンジンは、ヤマハとの協働が続く。後にセリカやトレノ&レビンなどが積んだ2TGや18RGは、後の名機である。
話を2000GTに戻す。1965年の東京モーターショーでプロトタイプが姿を現す。そして、翌1966年の日本グランプリで3位、鈴鹿1000km耐久で優勝を収めた2000GTは、その年の秋に谷田部テストコースで3つの世界記録と13にのぼるクラス記録を打ち立てた。スピードトライアルが打ち立てた世界記録は、72時間1万5000kmを走った平均時速206.04km/hだった。これは市販化に向けた強烈なデモンストレーションとなったのは言うまでもない。
2000GTが世界に誇れることのひとつは、その流麗ともいえるスタイリングだ。このエクステリアデザインを担当したのは、初代日産シルビアを描いたドイツ人デザイナー、アルブレヒト・フォン・ゲルツ氏だという“うわさ”が流布したことがある。この話の背景には、前述した「日産とヤマハのスポーツカー開発」があったからだ。しかしながら、この伝説も後年トヨタとヤマハによって全面否定された。車両デザインはトヨタ社内デザイナー野崎喩氏とそのアシスタントで実験担当の四方洋氏が描いた。
賞賛されるエクステリアデザインだが、高級なインテリアも高く評価された。前期モデルはウォールナット、後期型はローズウッドを採用した豪華なインパネとステアリングホイール。これは、「日本楽器」つまり楽器メーカーのヤマハが材料の供給・加工を担当して実現した。エンジンを担当したヤマハ発動機は、日本楽器から分離独立した別会社だが、当然兄弟の関係にある。同社のピアノやギター製造技術が、2000GTのインテリアに活かされたのだ。
名車「トヨタ2000GT」は、ヤマハとトヨタのデザイン力と技術が結集して完成したスポーツカーなのだ。この協働は、現在のトヨタ&レクサスのエンジン&車両技術開発にも生きている。(編集担当:吉田恒)