障がい者は教育を受ける権利を十分に享受できていない可能性がある。サポートが必要になるという壁があるためだ。教育機関での公開講座などだけでなく、卒業資格が得られる大学などで教育を受けることのできるような配慮のできる社会になることが必要だ。
基本的人権のひとつとして「教育を受ける権利」がある。国民は能力に応じた教育を受けることが日本国憲法によって保障されている。しかし、学習や日常生活でサポートが必要になる場合には教育を受ける権利を十分に享受できていない可能性も否定できない。目に見える障害を例としてあげると、車椅子を用いて生活する必要がある身体障がい者の場合である。どんなに知的能力が高かったとしても、段差があったり車椅子用の配慮がない施設を利用して教育を受けることは現実的ではない。教育を受ける権利を有している以上、障がい者に対する「合理的配慮」を否定することは差別であるとされる。しかし、ここでいう合理的配慮というのは体制や財政に関して「過度な負担を課さない」ことも前提とされる。
有識者会議に基づいて政府が発表した「障がい者の生涯学習の推進方策について」では、障害があっても学び続けることのできる環境をどのように構築していくべきかという問題が取り上げられている。「公民館等の社会教育施設や生涯学習センターにおける講座等」や「大学のオーフ゜ンカレッシ゛や公開講座」が例として挙げられ、国として障害を理由に学びの場が奪われることを問題化し、「公平なかつ質の高い教育」を促進する姿勢を整えつつある。
しかし、問題は大学などの高等教育や生涯学習だけにとどまらない。義務教育の場においても問題はまだ残っている。2018年7月には、一般財団法人全日本ろうあ連盟が文部科学省に対して「ろう教育等に関する要望について」と題される要望書を提出している。そこでは、「きこえない子ども」が育つ上で「きこえる子ども」と同じような言語発達が必要であることや、ろう学校であっても手話言語が教科とされていないことなどが問題とされる。きこえない子どもとのコミュニケーションが容易になるように保護者にも手話言語を学ぶ機会を提供するなどの援助を行うこと、判断力や表現力に基づいた「生きる力」のためにも手話言語を体系的に学ぶ必要性についての要望が書かれている。
どの程度の教育を受けたかということは、初任給の違いなどの金銭的な問題としてでなく、実質的に職業選択の自由や人生における充実度に反映される。障害を理由に自由を奪われることはあってはならないことである。生涯学習の場で学ぶことを選択できることはもとより、小・中学校の義務教育や高等学校での教育、大学卒業程度までの教育を障がい者であってもスムーズに選択できることが求められる。(編集担当:久保田雄城)