名車概論/1955年の国民車構想が生んだ大衆車から派生──トヨタ・パブリカ・コンバーチブル

2015年02月15日 12:45

Toyota publica

後期型トヨタ・パブリカ・コンバーチブル。現在でもトヨタ車のコーチビルダーとして生産を行なうセントラル自動車がボディ製造を担当した。

 日本自動車工業会の資料によると、1955年通産省が「国民車育成要綱案(国民車構想)」を発表。2~4人乗り、最高時速100km以上、定地走行燃費30km/リッター、走行10万kmまで大規模修理が必要ない耐久性を達成する乗用車で、1958年秋には生産開始できることが望ましいという意向だった。この国民車構想は立ち消えになるものの、国産自動車メーカーには、この構想をキッカケにそれに近い自動車を開発しようという意欲が芽生えた。つまり、メーカーは「政府が国民に自動車を所有させるつもりがあるという具体案を示した」と受けとめた。これが後のモータリゼーション発展を推しすすめたと言える。?スバル360(1958年)、三菱500、マツダ360(1960年)などが、この国民車構想を契機に開発された。

 トヨタが1961年に発売した「パブリカ」も当該構想に基づいて開発した4人乗りの小型車だ。初代モデルは1969年まで販売される長寿モデルで、トヨタのエントリーモデルとして、後のスターレット、現在のヴィッツにつながる。これらのモデルには、後に登場する“スポーツ”モデルが必ず存在することとなる。

 トヨタ・パブリカの企画は1954年にスタート。冒頭で記した国民車構想が翌年発表されたことで、1955年に開発計画が具体的に動く。当初の計画では、仏シトロエンの2CVに倣った空冷2気筒エンジンで前輪を駆動(FF)車という構想だった。が、当時のトヨタの技術力では、国民車構想にもあった耐久性を達成できなかった。そのため、開発後期の1959年に至って、ごくコンサバティブな固定軸の後輪駆動車に切り替わったという経緯を持ったクルマだ。

 エンジンは当初500ccクラスを想定していたが、名神高速道路建設がすでに始まっており、連続100km/h走行を実現するため700ccクラスと決定した。

 発売された初期型UP10型パブリカは全長3500mm超の極めてコンパクトなボディに、現在でも画期的といえる697cc空冷水平対向2気筒OHVエンジンを搭載、最高出力28ps/4300rpm、最大トルク5.4kg.m/2800rpmというアウトプットを持っていた。組み合わせるトランスミッションはコラムシフト式4速マニュアル。1速以外のギアはシンクロメッシュ化された民主的なミッションだった。車重は580kgに抑えたことで、最高時速110km/hを達成したと記録に残る。

 発売当時のパブリカ2ドアセダンの価格は38.9万円。この価格は軽自動車よりも低廉だった。このパブリカの発売と同時に、トヨタは「トヨタ店」「トヨペット店」に次ぐ第三の販売チャネル「パブリカ店」を構築し、パブリカの専売チャネルとした。この新販売チャネルは、現在の「カローラ店」として継続している。

 このパブリカ専売チャネルのために、派生車種が次々に投入される。1962年にはバン、トヨグライドと呼ぶオートマティック車。そして、1963年には、リクライニングシートやラジオ、クロームメッキモールで加飾した豪華なセダン「デラックス」を投入する。

 同時に開発・発売したのが、セントラル自動車にボディ製造を委託した写真のコンバーチブルだ。1964年には、さらにトラックが追加となる。

 1966年に大規模なマイナーチェンジが実施され、800ccツインキャブレターを搭載し、45psとなった後期型UP20型に発展する。写真の赤いコンバーチブルは、その後期型モデルだ。このコンバーチブルには、レブカウンター(回転計)やトリップメーター、油圧計などスポーティな装備が揃っていた。

 1968年には同様の装備を持ったセダン「パブリカ・スポーツ」が発売される。このスポーツのTVCMやポスターには、現1万円札の肖像で慶應義塾の創設者である福沢諭吉の曾孫、ファッションモデルでトヨタのレーサーでもあった福沢幸雄が起用された。幸雄は1969年にレーシングカー、トヨタ7のテスト中の事故でこの世を去る。(編集担当:吉田恒)