名車概論/「ヤマハ歴史車両」イベントに観た、同社の基礎を担った初号機「YA-1」

2016年11月12日 19:50

Yamaha_YA-1

ヤマハ発動機は1955年2月にモーターサイクル部門が日本楽器から独立。モーターサイクルメーカーとして産声を上げるための初号機が写真の「YA-1」だ

 静岡県磐田市新貝にあるヤマハ発動機の企業ミュージアム「コミュニケーションプラザ」に収蔵される同社の歴史的車両をデモ走行する「ヤマハ歴史車両デモ走行会・見学会2016」が11月5日、静岡県袋井市にあるヤマハ発動機テストコースにおいて開催された。同社の歴史に名を残すヒストリック・マシンが、相応しい場所で疾駆したが、そこには、ヤマハが世界のモーターサイクルメーカーとして羽ばたく最初の1台も展示されデモ走行した。ヤマハバイクの初号機「YA-1」である。

 1950年代、日本は未だ戦後復興期であり、手ごろな移動・輸送手段としてバイクが大活躍していた時代だった。そのバイクの普及に伴って国内には二輪車メーカーが急増。1953年には大小150社を超えていたともいわれている。

 しかし、過酷な過当競争は、中小の弱小メーカーだけでなく戦前からの有名ブランドだった「メグロ」「陸王」などをも淘汰する。代わりに新しい技術開発力を持ったホンダやトーハツなどの新興企業の躍進が始まった。

 そんな時代にヤマハ(日本楽器製造:当時)が二輪車製造に乗り出す。開発は1954年3月にスタート。2カ月後には試作1号機を完成させるという、とんでもないハイペースで進行する。その夏、10台の試作機をそろえて1万kmのハードな実走テストを行ない、10月には型式認定取得に至るというスピートで開発されたのが、同社第1号マシン「YA-1」だ。

 全長×全幅×全高1980×660×925mm、重量94kgのYA-1に搭載したエンジンは、単気筒123cc、2ストロークエンジンで、最高出力5.6ps/5000rpm、最大トルク0.96kg.m/3300rpmを絞り出していた。

 黒一色で重厚なカラーリングがバイクデザインの常識だった当時、栗茶色のスリムな車体から、“赤トンボ”の愛称で呼ばれた。大卒男子初任給が平均1万780円の時代に13万8000円という価格にも関わらず、3年間で約1万1000台販売された。

 この「YA-1」の開発で、1955年2月にモーターサイクル部門が日本楽器から独立、ヤマハ発動機が誕生したのだ。

 この美しいデザインの「ヤマハYA-1」は、ドイツのモーターサイクルメーカー、DKW(デーカーヴェー)社の代表的バイク「RT125」を手本としたとされる。DKWは、自動車メーカー4社が合併したアウトウニオン(現:アウディ)の構成メンバーだった。2ストロークエンジン開発を得意とし、1920年代に世界最大の二輪車メーカーとなった。なかでも名車とされる「RT125」は、エンジンの構造がシンプルで信頼性も高かった。スリムで美しいデザインは、楽器作りから転身するヤマハ技術者の意欲をかき立てるものだったと伝えられる。

DKW 社の「RT125」を真似たモーターサイクルは世界的にも相当数が存在した。が、「ヤマハYA-1」は仕上がりの良さで群を抜いていたという。

 しかし、発売当初は、営業面でかなりの苦戦を強いられた。 そこで当時の川上社長は、YA-1の優秀性をアピールするため、当時2輪業界最大のイベント「第3回富士登山レース」(1955年7月10日)へ挑戦する。静岡県富士宮の浅間神社から富士山二合目まで、24.2kmを一気に駆け上がるハードなレースだが、YA-1は優勝。さらに3位、4位、6位、8位、9位まで入賞する快挙を挙げる

 3カ月後には、「第1回浅間高原レース」が開催され、そこでYA-1が1位から4位を独占。YA-1は、全国モーターサイクルファンにとって憧れのバイクとなった。

 今回の「ヤマハ歴史車両デモ走行会・見学会2016」では、熱心なオールドファンはもちろん、その存在さえ知らなかった若いライダーまでが、コンパクトなYA-1を熱心に眺めていた。(編集担当:吉田恒)