「東大卒、重工出身」の呪縛とコンプレックスから逃れられない? 三菱自の悲劇

2016年04月23日 19:12

Mitsubishi_Motor

三菱自動車、相次ぐ不祥事。燃費試験データ不正操作は、軽自動車4車種にとどまらない

 三菱自動車が揺れている。軽自動車4車種について燃費試験データを不正に操作した問題だ。加えて同社は2002年以降、先に発表した4車種以外でも国の規定とは異なる試験方法で燃費試験データを測定していたようだ。

 三菱自動車は2000年に「リコール隠し問題」で、1977年から約23年間、乗用車6件約45万9000台、大型・中型トラックで3件約5万5000台にのぼるリコールにつながる不具合情報を運輸省に報告せず社内で隠蔽していた。内部告発デ不祥事が発覚したのだった。この事件の責任をとる格好で、当時の河添克彦社長が引責辞任。同社は2004年にも分社化したトラック&バス部門で、大型トレーラーのハブ欠陥によるタイヤ脱落事故が発生。ここでも事故の原因をユーザーの整備不良と同社は回答していたが、後に設計ミスによる欠陥だとされた。結果、同社再生を支援していたダイムラー・クライスラーがその支援を中止、後に資本関係も解消となった。

 三菱自動車は1970年に三菱重工から分社独立した自動車メーカーだ。それまでは重工の自動車部門だった。1980年代半ばにはパリ・ダカール・ラリーに参戦した「パジェロ」がバブル景気に乗って大ヒット。ランサーなどもラリーで活躍し始め「ラリーの三菱」が定着した。そして、トヨタ、日産に次ぐ国内3位のメーカーとなった。

 バブル当時の若い三菱自動車広報マンが漏らした言葉を思い出す。「三菱の若手社員は、“三菱のクルマが好きで”入社した。でも、70年以前に入社した中堅以上の人は“オレは重工出身だから”という独特で奇妙なプライドを持っている。とくに開発陣に多く、“航空機や宇宙工学を目指して重工を選んだ。なのに、何で自動車なんだ”というコンプレックスさえ感じる」というものだ。

 確かに、バブル期の中堅社員が入社した頃、つまり1970年頃の三菱重工は国家的な大企業。技術陣には東京大学理工系出身者が圧倒的に多く、強烈なプライドを持ちつつ、そこから“分離させられた”自工マンには負の意識もあった。そこから、甘え体質、無責任体質が生まれているとも。2000年、2004年と不祥事が相次いだのは、バブル期の中堅社員が三菱自動車幹部となり、かつて口にした「東大卒の重工出身──」だという呪縛と歪んだ体質から生まれたとの指摘も多かった。

 しかし、現在の三菱自動車経営陣には、元重工マンはいない。相川哲郎社長兼最高執行責任者(COO)も東大工学部卒(1978年)だが、純粋にクルマが好きで三菱自動車に入社した生え抜きだ。ただ、三菱自動車の「無責任な甘え体質」は変わっていないのかもしれない。

 今回の不祥事、三菱自動車によると、「誤った方法を採用したクルマの方が多く、10車種近く」だという。同社は国が定める方法で測定し直し、国に報告する。ずさんな管理が続いていた背景も調べるという。

 2014年に、益子修社長が会長兼CEO(最高経営責任者)に就き、社長兼COOに「生え抜きエース」といわれた相川哲郎氏が昇格。16年ぶりに株主への復配も実現し、「再生にひとつの区切りがつき、新たなスタートラインに立った」としていた三菱自動車。しかしながら、今回の“不祥事の根”は深そうだ。自動車メーカーとして生き残れるか?(編集担当:吉田恒)